東向日記

東向の窓から始まる1日

自信と名前と才能と

璃波なんて名乗ってますが、本名近いですけど偽名です。

ただ、本名で書く気などさらさらないわけです。

本名で、こっぱずかしいことも、正論も、間違ったことも書けるほど、私はオトナではないのです。

それでも、何か表現をしたいから書くのですが、こっぱずかしいぶった日記も、本名でリアルな知り合いの見る場で書けるかと言ったら書けないのである。どう見られるか。が自分に直結することは、自分を削ることになるからだ。

璃波はそのへんは無関係だから、好き勝手書くことができる。無責任に近い。

短歌を詠むのも、璃波が本名の私と一緒に詠んでいるようなものだ。しかし、たぶん本名の私が詠むとつまらないものになる気がしている。どう見られるかを必要以上に考えてしまうから。

ぶって詠むのも大事なのである。脱皮をする日が来るかもしれないけど、今はそれが大事な気がしている。

 

知り合いに、オシャレな写真にオシャレな言葉を添える人がいる。言葉も綺麗で素敵な表現だ。

食べるものも、自信に満ちている。

その人は仕事のできる人だ。

そして、自分の美意識や好きなもの大手を振って表現できる人だ。

わたしは、自分に自信が無く、そこの部分は璃波に頼っている。

そして、リアルな知り合いには璃波をひた隠しにしている。

短歌なんて。

そんなもの。

そんな言葉を遮るほど強くないし、そんな実力もない。だから、ひっそりとひっそりと詠む。

ブログも、ひっそりとひっそりと書く。

好きなものに自信がない持たないということは、自分に自信を持っていないということだ。

それでも書く意味とはなんなのか。

それでも詠む意味はなんなのか。

 

 

話は変わるが、わたしは自転車に乗るのが趣味だ。

自転車の走行ログをアプリにつけている。

知り合いたちに公開すると、すごいね!をつけてくれる。

すごいね!は字面通りの意味ではない。

遅いしね。

それでも、走行ログをつけているときは、速く走ろうとする。頑張るのだ。

つけてないときは、のんびりだらりんと自転車に乗る。ほんとは、その方が楽でいいのだ。

でも、100km走ったよ!とかここに自転車で行ったよ!それを自慢したいのだからクソ面倒な私は走行ログをとる。この坂で自己記録更新!とか見てニヤニヤしている。

人に見てもらうということが、頑張ることにつながることを知ってるということなんだろうと思う。

 

紀貫之という歌人がいる。

私は紀貫之が大好きである。

あのこれみよがしな技巧派の歌がわたしは好きだ。

在原業平のような、華やかなバラを背負ったような歌はあまりないが、超絶技巧な感じがする。

リスト的なやつである。

そんな、愛しの貫之兄さんが書いたと言われる土佐日記

男もすなる日記といふものを女もしてみむとてするなり。

貫之兄さんも女に仮託して、ひらがなで自分の言葉を残して、後世に多大な影響を与える日記文学を確立したのであるから、わたしも璃波さんに仮託して書いてみむとてするなり。

本名で書ける程の、自信がつくまでは。

本名で素直になれるほど、強くなれるまでは。

本名で詠めるほど、上手くなるまでは。

カッコつけることが、カッコつくまでは。

 

そして、璃波ともお友達になれるお友達もたまにいるのだけど、その人たちはやっぱり表現することをバカにしない人なのである。

わたしも表現をする人が大好きなので、そうありたいなぁと思う今日この頃なのです。